米倉良好の「私、失敗しかしませんので!」

無免許でも意志があればいいのよ

220806

『「やってあげる」ということはその人の判断を奪うことがある』とある人に教えられた。

 

確かに、と思う。

極端な例を出すと、動物園で餌を貰って生きているトラは野生に戻った時に自分で獲物を捕まえるということを知らない。食べ物は時間になると出てくるものだから。

 

人間の子供で言えば、いつまでも親が着替えをやってあげていたらその子供はいつまでもたってもボタンひとつとめられない。黙って立っていれば「さあ着替えましょうね」と親が率先してやるものだから。

 

「やってもらっている」人は自分の判断でやってもらっているわけじゃなくて、人がやるものだと思ってしまう。そうすると社会に出て戸惑うことになる。何をどう判断して何をすればいいのか分からないから。

 

そして、「自分でやった!」「自分で決めた!」という達成感も成功体験もできない。そういう意味で「やってあげる」っていうのは色々な大事なものを奪うことだと思う。

 

「やってあげる」という行為は最後の行為でいいんだと思う。本人が判断してやってみてそれでも出来ない時に、その本人から「やってほしい」という意思表示があった時に初めて「やってあげる」という行為に出ればいい。

 

いきなり「やってあげる」と、やってあげてる人が主役になってしまう。それだと、やってもらってる人に主体性はなくなる。

 

あくまで脇役で「手助け」するのが本当の「やってあげる」なんだと思う。「助けてもらいながらできた!」でもいいから主役はあくまでやろうとしている本人でなければならないと思う。

 

主役の座を奪うのは、その人が獲得できるはずの大事な体験を奪うことだから。